【後編】現代僧侶 稲田ズイキが考える「無限の個性」との出会い方

フリースタイルな僧侶たち 編集長

田中 滉大 anow編集部 プロデューサー


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特集1:「生活世界の見つけ方〜多様性の中の個性を再考する〜」

今回の特集では、多様性の実現が叫ばれる現代において、その多様性の根源である「個性」のあり方について掘り下げる。
ある特定の条件や評価基準の中だけで成り立つ個性ではなく、その人のあるがままの姿や自然な姿が個性として認められ、受け入れられるために、私たちは何を考え、どのように変化を生み出せば良いのだろうか。インタビューを通じて、多様性の中の個性のあり方を再考する。

現代において、私たちは「自分自身の個性」に向き合うことを求められている。

それぞれの個性を活かし、尊重して生きていくことが今の社会に必要なことであり、私たち自身もそれを望んでいると思う。

しかし、いざ個性に向き合おう、個性を発揮しようと思った時に、「この個性の出し方はよくない」や「これは価値のある個性ではない」という評価が存在するのも事実だ。

そのような時代・社会の中で、私たちはどのように個性を考え、社会の中で個性を認め合うことができるのだろうか?

このような問いは、私たち以前に生きていた人々も向き合ってきたものだろう。

後編では、僧侶であり作家・編集者としても活動されている稲田ズイキ氏に、自身が経験した固定化された個性の苦しみと解放、そこから伝えられる個性の再考を促すアドバイスについて聞いていく。

PROFILE

稲田ズイキ フリースタイルな僧侶たち 編集長

1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退したのち、東京渋谷のデジタルエージェンシーに入社するも1年で退職。2018年に僧侶・文筆家・編集者として独立し、放浪生活を送る。現在は京都に定住。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)

デザインされた自分という苦しさ

仏教的な観点でいえば、一つだけの個性という考えはなく、他者との関係性の中で立ち現れる自分の態度や姿が個性であり、それは他者の数だけ存在すると稲田氏は話す。

しかし、稲田氏自身もこの「一つだけの個性」という考えに陥り、苦しんだ経験があるという。

稲田:僕は、会社に就職しながら兼業で僧侶をやるという形でキャリアをスタートさせていったんですが、そのような中でも「僧侶兼コンテンツクリエイター」という役回りで個人でも記事を書いたりしたものが運よくバズったり、メディアに取り上げてもらえたりしていたんです。

それもあって、就職して1年ほどで会社を退職して、現在のフリーランスというスタイルに切り替えて活動をしていったんですけど。

そういう自分の肩書きとか、人から見られたり求められる姿を背負い込み過ぎてしまって、すごく悩み始めてしまったんですね。

稲田氏の著作である『世界が仏教であふれだす』(集英社)

最初は自分の新たな個性として「コンテンツを生み出す僧侶」というペルソナを持っていたが、徐々にそのペルソナが唯一の自分になってしまっているような感覚に稲田氏は陥ったと話す。

稲田:はじめは自分と仏教との距離感をなんとか縮めるために、僧侶の視点からコンテンツを作っていたのですが、それが世の中に受け入れられ始めると、当たり前ですけど「僧侶としての自分」だけが社会から期待されるようになってきて、「あれ、自分はこんな姿になることを望んでいたんだっけ?」とわかりやすく悩み始めました。

それに加えて、仏教界自体がいわゆる「宗教離れ」の傾向にある崖っぷちの業界でもあるので、僧侶として仏教を背負っていかないといけないという思いと、だからこそ自分が世の中に僧侶という存在を訴えていかなければという重圧を勝手に感じていて、本当の自分とそうあらねばならない自分とのせめぎ合いで、毎日真面目に葛藤していました。

自分自身でデザインした自分の個性から抜け出すことができず、苦しんでいるというケースは、評価経済が浸透し拡大する現代において、多くの人に共感できるものではないだろうか?

家出体験によってたどり着いた「個性の複数性」

自分自身が何者なのか、何をしたいのかという問いに悩まされる中、稲田氏は行動することとなる。

それは、「家出」という一見すると予想の斜め上をいく手段だったという。

稲田:期待に応えようとする自分にヤキモキしていた時に、その感情が一気に爆発してしまったんです。急にいてもたってもいられなくなって、自分の中に閉じこもっていてはダメだと思い、一時的に家を捨てました。SNSで自宅に泊めてもいいという人を見つけて、全国のいろんな家を転々とするみたいな生活を始めたんです。僧侶になった後に家を出たので、「出家のち家出」と言ってました(笑)

この時は、他者と出会うことで自分らしさを考え直すという目的よりも、僧侶としての原点をもう一度考え直したいという目的の方が強かったと思います。

僧侶とは、仏教の言葉でいう「抜苦与楽」、すなわち生きる苦しみと向き合い、少しでも楽を与えるような存在だと思っていたんですが、その時の自分は「自分がどうあるか」ばかり考えてしまっていて、他者に向き合うことができていない、「Twitterやってる場合じゃねぇ!」という感覚でした。

だから、もっと世の中に開いていきたいという気持ちが強くなって、結果的に家出を始めたという感じだったんです。

家出生活は半年間ほど続いて、約40軒に宿泊させてもらい、最終的にタイにまで行っていました。

家出期間中、当初は自分を泊めてくれる人たちもデザインされた自分の姿や、フォーマット化された僧侶像を求めているのかと思っていたが、その予想は良い意味で外れたと稲田氏は話す。

「出家のち家出」期間の稲田氏。

稲田:家出初期のモチベーションは、「僧侶である自分に何ができるのか?」という問いに何かしらの答えを求めていたんですけど、実際にいろんな人たちの家に泊めてもらっていると、誰も「僧侶としての稲田」という姿を求めていなかったんですよ。

単純に、僕と話したいから泊めたとか、面白そうだから泊めたとか、そういう理由ばっかりだし、「家にいる」って不思議なもので、社会で被っている仮面みたいなものがお互いに自然と外れているような感覚がありました。だから僕も、ただただ他人の家で寝転がって過ごしたり、おしゃべりしたりするような生活を送ったんですね。

そうした生活を続けていると、徐々に「俺、なんで悩んでいたんだっけ?」「なんのために家出したんだっけ?」と、おかしくなってきて(笑) 自分が考えていた自分の姿やこうならなきゃというイメージは、自分が勝手に作ってしまったものだったのではないか?」というように考えるようになっていきました。

そして、大きな転換点だったのは、家出中に偶然かかってきた中学時代の顧問の先生からの電話だったという。

稲田:家出の終盤に、10年ぶりくらいにたまたま中学の卓球部の顧問だった人から、電話がかかってきたんです。町民大会があるからその運営を手伝ってくれないかという突拍子もない内容だったんですが、その時「みずき、お前来週暇か? みずき、手伝え!(「みずき」は、稲田氏の本名。「ズイキ」は僧侶名)」と呼びかけられて、なんかそれがよかったんですよね。

先生は何気なく、昔通りに僕のことを呼んだんですけど、その当時の僕は「稲田ズイキ」という名前で活動していて、その中で作られていった自分のあり方に悩んでいたので、もう一つの名前で呼ばれた時に、”みずき”として生きていた時間とか記憶が一気に蘇った気がしたんです。先生とは10年くらい出会っていなかったんですけど、会えない間も「みずき」として先生の中に僕は生きていたんだと思うと、謎に感動してしまって。

映画「千と千尋の神隠し」の中で、あるキャラクターが本当の名前を呼ばれることで自分の記憶と姿を取り戻した、あのシーンと似ているかもしれません。

その時に、やっと「諸法無我」という仏教の言葉がわかったような気がしました。自分はみずきであると同時にズイキであり、呼ぶ相手ごとに無限の自分が存在している。自分の中で固められていた個性のあり方が、解放された気がしたんです。

このように、自分自身で固定化してしまっていた自分の姿を、他者からの呼びかけによって溶かされ、個性の呪縛から解放される。

そうすることで、私たちは「無限の自分」とも言えるような自分自身の個性の可能性を拡張することができ、個性の固定化に陥ることなく生きていくことができるのかもしれない。

他者と出会い続けることで、自分の個性も無限に広がる

他者との間で現れる自分という個性のあり方を、自らの体験をもって学ぶことになった稲田氏だが、現代の固定的・条件付きの個性に苦しむ人たちに対して、どのような方法を提示できるのかという問いを投げかけてみた。

稲田:自分で自分を規定しすぎないということと、あとはやっぱり、他者と出会い続けること、その中で自然に引き出されている自分を素直に「一つの自分だ」と認めてあげることだと思います。。僕も会社員を経験しているので、例えば職場と自宅の往復だけの生活を続けていると、一つの関係性だけで世界が形作られていたり、その場に現れる自分だけが自分であるというように錯覚してしまったり、そうした閉塞感や思考が硬直していく感覚はすごくわかります。現代はどうしても「キャラ立ち」みたいな感じで、一つの個性が求められるので、どうしてもそうならざるを得ないですよね。

でも、何事も緊張と緩和が必要であるように、個性も一と無限の間を行き来するのがいいんじゃないかなと思うんです。自分の周りではガンガン個性を売り出していた人が、しんどくなっちゃってる姿をめちゃくちゃ見かけます。なので、たまには解放しないとと思うんですよね。まだ出会ったことのない他者に出会いに行くことはその一番いいきっかけになると思うんです。

それは、旅をするという形でもいいですし、帰り道にいつもとは違う道や路線を使ってみるという些細なことでもいいと思うし、墓なんかは自分の物語を再構成するためにはうってつけの装置ですよ。

そこで新しい何かと出会った時に、自分はどのように思うのか、どのような自分が現れるのかを楽しむ姿勢が大切なのではないでしょうか。

稲田氏の話す「他者」とは自分以外の人間というだけでなく、犬や猫などの動物や石といった無機物も含まれると話す。

稲田:僕、毎朝のルーティンで、石ころに挨拶してるんですよ。山で拾ってきた石があって、「ジョイ」と名づけて「ジョイ〜おはよう〜」って言ってるんです。なんかやばそうな人に思われるかもしれないですね(笑) もちろん石の声なんかは聞こえないし、石の精なんかも見えないんですが、こうやって言葉を持たない存在に「語りかけて返事を待つ」という時間が自分にとっては、すごく大事で。

尾崎放哉という自由律俳句で著名な俳人がいるのですが、「石」という題の随筆で「石は生きている。ただ黙っているだけだ」という内容を延々と書いていて、「わかる〜!」と思いました。おそらく、尾崎は無意識で当たり前のように石に語りかけているんですよね。語りかければ、その場には「語りかけに答えない石と返事を待つ私」という関係性が立ち上がってきます。一般的な見方からすればただのモノにしかすぎない石だけど、たった一つの行為で石は当然のように私の中で命を帯び始めるし、そんな石の返事を待っている自分が僕は好きなんですよ。

つまり、他者というのは人に限定されるものではなくて、自分の身の回りにあるさまざまなモノやコトのことです。毎日の繰り返しの生活の中でも、他者は無限に存在するし、そうした他者によって自分の個性は無限に引き出されていく。そうした豊かな可能性が僕らには十分に備わっているということを少しでも心に置いてもらえたらなと思います。

ある意味、他者と出会うということは「自分自身が自分以外のものに関係しようとする」ということなのかもしれない。

関係性の糸を様々なものに結ぼうとすること。そうすることで、常に何かとの関係のなかで様々な自分の姿と出会うことができる。

それは、「そのほうが価値があるから」という考えからではなく、「そう生きることが自分も誰かも愛することができるから」という考えから発しているように思える。

多様性という大きな目標に対して、まずは自分自身の個性が無限に多様であることを認め、それは他者という存在があるからこそ成り立つものだということを理解する。

それが何よりも、多様性の第一歩になるのではないだろうか。

田中 滉大 anow編集部 プロデューサー

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